アセンションの時代

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遊び心

私達が生きている意味・存在している意味を考える時、何かこう、崇高な意味をそこに見つけ出そうとするものです。

それがスピリチュアルであったりする訳なのですが、私はスピリチュアルと言うのは「意味と言うよりは単に法則」なのだろうと感じています。

それは、エネルギーの流れ・性質を表すものであり、「目的と手段」と言う視点からそれを捉える時、スピリチュアルと言うのは「手段」であると思うんですね。

つまり、スピリチュアルを追及するという事は、より効率的に目的を達成するために手段を追求すると言う位置づけになると思うのです。

この次元に主体を置いて考えればスピリチュアルが目的と考えても支障ないように思うのですが、より大きな視点では、スピリチュアルより意識と言うか・・・上手く言えないですが。

スピリチュアルと言うのは、私達が生み出すものではなく、既にあるそのエネルギー的な法則・性質を自己の内側に見つけ出す作業なんですね。

既にあるものを見つけ出す事に目的があるとは思えません。それは、過程を進んでいく上での一時的な目的にはなり得ると思うのですが、それ自体が最終的な目的ではそれこそ意味が無いのです。

では、私達が私達として存在している目的と言うのは何なのでしょうか。

それは、「遊び心」だと思うんですね。つまり、ワクワクとその経験を楽しむと言う事です。

スピリチュアルだとか何だとかかんだとか、そこにどんなに難しく崇高な意味を見つけ出そうとしても、核心に進めば進むほどに、そこに見えてくるのは存在の中に生み出された遊び心だと思うのです。

それが、ハートの声だと思います。崇高な何かを求めるのはマインドなんですね。

自分自身が「いい感じ」の時と「イマイチ」な時とを比較して見ます。すると、いい感じの時と言うのは、ハートが主導している事が多いんですね。

典型的な例として、とても良い感じのときと言うのは子供や犬と遊んでいる時であり、思うままに身体が動いている時です。

逆にイマイチな時は、マインドの主導によって行動に流れが無い時です。

それは、マインドが悪いと言う意味ではなく、マインドを上手く利用できていないためにエゴとしての性質が出ていると言う事なのです。

マインドは、マインドとしての役割を上手く果たすために、スピリチュアルと言う精神的なエネルギーの法則を理解する必要があります。

私達は1つの取り組みとしてそこに力を入れている訳ですが、だからと言ってそれが唯一崇高な人生の目的であると言う訳ではないんですね。

その目的を達成しながら、より効率的にこの経験世界を楽しんでいく事こそが、より大きな目的であると思うのです。

より正確に突き詰めれば、そこには目的や手段と言う区別は無く、それらは一体的なものだとも思うのですが、そう言ってしまってはこの世界での議論としてうまく成立しなくなってしまいます。

昨日、フッとこう思ったんですね。「考えすぎて行動を重くするばかりではなくて、もっと素直に楽しむ事を大切にする方向へと意識を向けたほうがいいな。」って。

それは、昔から自分が抱えている課題なんですね。

それが上手くできずに、うっ憤が溜まりに溜まった上で、ドカ~ンと大きな行動に出ると言うのがパターンなのです。

そうじゃなくて、普段から当たり前のレベルでヒョイヒョイとそう生きていけたらいいなぁと思うのです。

それが実際に出来ているのが、子供や犬と遊んでいる時なんですね。その時と言うのは、ハートが完全に主導していながら、マインドもサポーターの位置でシッカリと働いているんですね。

ただ、他の事になると、ハートが一歩下がってマインドが行動を重くする傾向があるんですね。極端にそうであると言う訳では無いのですが、理想とのギャップとしてそうした部分を感じているのも事実なのです。

「もっと、肩の力を抜いて、素直に楽しんでいけよ。」って、何度でも自分に言いたい感じです。(笑)



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