アセンションの時代

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夢診断

エネルギー的な視点から世界を捉える時、「物質世界」と「夢の世界」には、私達が思うほどに根本的な違いはないのです。

ただ、私達が物質世界で利用している肉体的な脳と言うのは、あくまでも物質世界に対応したものであり、エネルギー的な夢の世界での経験には対応できていません。

そのため、私達は睡眠中に夢の世界で多くのことを経験してきても、目が覚めた瞬間にその記憶を全て忘れてしまいます。

あるいは、物質的な脳では理解の出来ないそこでの出来事を、脳が理解できるものに置き換えて、象徴や例えとして夢の記憶を思い出すことになるのです。

しかし、全てがそうであると言う訳でもなく、日常の思考や感情を整理するような形で象徴的に見る夢もあります。

私は先日、小型のジャンボジェット機に乗る夢を見たのですが、「飛ぶ」「移動する」と言う視点から、私が子供の頃から見てきた夢の継続性について書いて見たいと思います。

小学校の低学年の頃には、飛べませんでした。保育園の頃に住んでいたアパートの4階から落ちていく夢を何度も見ました。そして、下に落ちる前に夢は終わっていたのですが、一度だけ下まで落ちて救急車の中に乗せられたことがあり、それ以降、その夢は見なくなりました。

小学校の高学年から中学生くらいの頃には、スーパーマンの様に空中を飛ぶ夢を時々見ました。しかし、それは地上30センチ程度の高さで(笑)、「ああっ、地面に着いちゃう!もっと高く飛ばなきゃ!」と、フラフラとしながら思うように飛べない夢でした。

先日、中学生の息子が、これと同じような夢を見るとぼやいていました。

その後、高校生からこの数年前にかけては、遅刻しそうで焦るのだけれど、身体が前に進んでいかないと言う夢をとても良く見ました。

それと同じ期間に、「追いかけられる夢」も良く見ました。ただ、この夢は継続的に進歩して行き、はじめは逃げるだけの夢だったのですが、その内に何とか逃げ切れるようになり、やがて楽々逃げ切れるようになり、そして、最後には自ら反撃に出る夢を見て、それ以降、追いかけられる夢は見なくなりました。

その後、今から数年前くらいですが、歩いて駅へ向かう夢や高速道路のインターチェンジ周辺を自動車を運転したり、バスに乗ったりして走る夢を見た時期がありました。そうした夢は、駅へ辿り着き新幹線に乗る夢を見た以降、見なくなりました。

そして、回数は多くないのですが、とても印象的な夢として「飛ぶ夢」を、この1~2年くらいでまた見始めたのです。

まず、自然豊かな綺麗な湾内の海をパラグライダーで、飛ぶ夢で、その世界の美しさと風を切って飛ぶスピード感がとても印象的でした。

次に見た夢は、下から吹き上げる風に乗って、身体で風を受けながら宙に浮いて遊んでいる夢でした。それも、吹き上げる風の勢いと、気持ちよさ楽しさがとても印象的でした。

その次の時には、海で遊んでいる人たちの多い港の上を、パラグライダーでどんどん上昇していく夢を見ました。鉄塔の電線などもあったのですが、それも越える高さまで上昇していきました。

そして、昨日見た夢が、小型のジャンボジェット機の先頭に乗って、凄い加速感を感じながら空に飛び立っていく夢です。この夢が珍しかったのは、自分一人で乗ったのではなくそこへ導いてくれた人がいたと言う事です。それから、後ろに複数人の人が着いて来ていて一人ではなかったと言う点です。

導いてくれた人は皇室の人で、待つ時間も迷う事も無くすんなりと飛び立ったので、「ああ、これが皇室の力(権力)か。」と思ったりもしていました。多分、これで飛ぶ夢も見なくなるのかな?と言う気がしないでもないです。

ここまで書いて来て何に注目したかったかと言う事は、「継続性」なんですね。夢だからと言って、ヒッチャカメッチャかでカオス的なものを毎回見ている訳ではなく、そこには大きな流れ・方向性があると言う事です。

ようは、自分の思うように飛び立てない、進む事が出来ない時代を経て、自分の世界観を確立して自分の意思で走り出す事が出来るようになったと言う事が表れていると思うのです。

こうした夢と言うのは、1つには、日常現実を生きている私の意識の心象風景を映し出しているものであると考えられます。ただ、もう1つに、肉体的な脳では記憶する事の出来ない、エネルギー的な夢の世界での経験を、象徴として脳が捉えているものでもあるのではないかと思うんですね。

今回の夢について言えば、1人ではなく集団で飛行機に乗ったと言う事が、これまでには無かった事なのです。そして、自分1人で行動するのではなく導いてくれる人がいたと言うのも初めての様な気がするのです。

つまり、これまで物質世界での現実では、周囲が競争社会に参加している中にあって、1人でそれに抵抗し続けついにはそこから飛び出して、1人で手探りをしながら進んできたんですね。もちろん、支えてくれる多くの人もいたのですが、その人たち自身は競争社会に参加してその世界を生きている訳なのです。

そうした事から、そろそろ、変化が社会全体に及んでいくタイミングの中に入り始めているのではないだろうかと、「夢」と言う側面からも感じ取る事が出来るのです。もちろん、それは自分の思考が単なる象徴として夢に映し出されただけであるとも考える事も出来ます。

確かにそうした要素もあるだろうと思います。しかし、それだけでは無いと言う様にも思えるんですね。最近、「夢」に対する認識・位置づけを、単なる意味のない幻影から、物質世界とは異なる1つの「現実」へと改めていく必要を感じているのです。

高次元の存在達が地球人とのコンタクトを語る時、口を揃えて最重要視しているのが「夢の世界」でのコンタクトなのです。私達はコンタクトと言うと、UFOが飛んで来て・・・と言うように物理的な現実の中でのコンタクトをイメージするのですが、高次元存在達はコンタクトの舞台として夢の世界(次元)をより重要視しています。

彼らにとって、現時点での物理的なコンタクトと言うのは、私達が理解できるように私達の世界観に合わせた形でかなりの演出をしてくれているんですね。それは、あまり対等なコンタクトではなく、あくまでも私達の目覚めを促すために刺激を与えているに過ぎないのです。

より対等なコンタクトをするためには、私たち自身が、夢の次元にまで自らの意識を覚醒した状態で引き上げていく必要があるのです。

話しを戻しますが、別の視点から自分の夢を見てみると、小型のジャンボジェットに乗る前に見た夢は、押入れの中で目が覚めると戸の外でガツガツと激しいやや電子的な変な音がしていて、見てみると両手で抱えるほどの大きさの外国のカブトムシが凄い勢いで切られたスイカを食べていたのです。

それに嫌悪感を抱いていたら、メキシコ系?インディオ系?の人が来て両手で捉まえてくれたんですね。その後で、閉じ込められていた所から逃げ出す夢も見て、メキシコ系?の人たちと逃げ出したのですが、私の視点と言うのが良く分らず、格子から抜け出した外に視点がある一方で、格子の中の風景も見えているんですね・・・。

格子の中の世界を支配していたのは、インディオ系の人たちではありませんでした。

少し前に、夢ではなくて意識の起きている状態で映像が見えた時に、やはりインディオ系の人の顔が見えたことがあったのです。

私はよくよく考えてみれば、子供のころから都会的な生活よりも、インディアンの様な精神的な生き方に憧れていたりもしたんですね。それらの事から考えると、前世と言うかひいては魂のルーツと言うのがそうした方に源をもっているのかなぁ?と気付いて見たりもするのです。

「今日は死ぬのにもってこいの日」と言う、インディアンの世界観を書いた本は、中学生だったか高校生だったかの頃の愛読書でもありました。以下、一部抜粋して締めます。

今日は死ぬのにもってこいの日だ
生きているもの全てが 私と呼吸を合わせている
全ての声が 私の中で合唱している
全ての美が 私の目の中で休もうとしてやって来た
あらゆる悪い考えは 私から立ち去って行った
今日は死ぬのにもってこいの日だ
私の土地は 私を静かに取り巻いている
私の畑は もう耕されることはない
私の家は 笑い声に満ちている
子供達は うちに帰ってきた
そう 今日は死ぬのにもってこいの日だ

「今日は死ぬのにもってこいの日」 ナンシー・ウッド著 金関寿夫 訳



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