アセンションの時代

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私の日常

今日は、良いとか悪いと言う意味ではなくて、私の日常現実における側面を、様々な表現方法(生き方)の1つの例として少し書いてみようと思います。

私は2013年~2015年頃にかけて、離職・離婚を経験しており、現在は基本的に息子と二人暮らしをしています。

離職後しばらくは自分を落ち着かせる事に手間取った時期があり、離婚後しばらくは息子も登校拒否など難しい時期がありましたが、いずれも現在はすっきりと乗り越えた状態にあります。

普段の生活では、朝、朝食を食べて子供を送り出してから、洗濯物を干し終わるのがだいたい8時頃です。

そして、冬は16時、夏は17時頃まで自由時間になり、そこからは晩御飯を作って食べたり子供と話したりして、22時頃には就寝すると言った感じです。

仕事は自由業(雇用関係によらず、独立して営む仕事)で週に半日働いており、それとは別に年間で2~3週間くらい働いています。他に、電子書籍の収入も少しあります。

それらの合計収入は、サラリーマンをしていた頃の4分の1くらいです。

ところが、不思議と言うかオモシロいもので、特にお金に困った事はないんですね。

離職した当初は、貯金を食いつぶしながら3年くらいで収支トントンに持って行くと言うイメージでいたのですが、基本的に貯金は減っていません。

だからと言って、ケチケチと切り詰めている訳でもなく、お金で持っていてもどうせ金融崩壊で紙くずになるからと思って、なるべく必要な物に変えておこうと頭を捻るのですが、本当に必要なものって意外と少ないんですよね。

もともと流行や大量消費とは無縁で、あまりお金の使い方を知らないんですね。(笑)

だから、そんな収入でも貯金が減らないのです。そもそも、貯金と言っても金融機関への預貯金はほとんどありませんが。

退職金も離婚で分けたり、その前には家を建てたりしているので、そもそもそんなには無いのですが、金貨や仮想通貨などで、仮に収入が途絶えても今の生活であれば当面は困らない程度の備えはあります。

さて、そう言う訳で、日常生活における最大のテーマはお金ではなく、ありあまる自由時間をどの様に過ごして行くかと言う事なんですね。

まず1つは、自然散策ですね。曜日や時間が決まっている訳でなく季節的なムラもあるのですが、時々、気が向くと近くの山や海辺を散歩しに出かけています。

同じ様な感じで、金・土・日曜の夜には近所の実家に行くので、その時に愛犬の散歩で1時間半くらい歩きます。住んでいるのが程よい田舎なので、これも自然散策と大差ありません。

あとは、インターネットで興味のある情報を読んでみたり、ユーチューブで感動する動画を見て涙を流してみたり。(笑)

それから、子供が読みそうな本を借りたり、電子書籍を書きにパソコンを抱えて図書館に行ったりしています。特に、寒い冬や暑い夏はエアコンが効いているし、息抜きに漫画の本も置いてあるので、水筒にコーヒーを入れて行く事も多いです。

以前の仕事の関係で、商売をしている人の知り合いが多いので、買い物や昼食に行って話しをしたり、近所の農家さんの販売所まで散歩しながら買い物に行って会話をして来たり、やっている仕事も人を相手にしている部分が大きいので、特に社会との距離を感じる事もないんですね。

自分としては、程よく距離を保っていながら繋がりは維持されているといった感じで、結構気に入っています。

あとは、これまでにも書いて来ているのですが、庭の果樹栽培(と言っても、成長を眺めていて実ると収穫して、ジャムを作ったりシャーベット・生食などで食べるだけですが)を楽しんだりしています。

そうした諸々を含めてなのですが、自分の人生をトータルでコーディネイトしていると言う感覚が以前に比べて強くなっています。

考えてみれば、もともとサラリーマン時代から、自分の時間をコーディネイトすると言う意識はかなり強かった様に思います。

それが、余暇と言う限られた中での話しではなく、日常全てを自分でコーディネイトして行く事が出来るようになったと言う部分に「自由」を強く感じているような気がします。

例えば、食事であれば季節の野菜・果物を中心にして、肉はあまり使いません。お菓子もあまり食べません。その様に、自然の流れに沿って調和する事が、結果としてお金のかからない食生活にも繋がって行くのです。

子供には肉を食べると言う事がどう言う事なのか、動物を家畜する事で地球環境がどれほど歪められているか、屠殺すると言う事がどう言う事なのかを話しつつ、食べる肉の量を控えめにしながら、それでもたまにはしっかりと肉料理を出してみたりでバランスを取っています。

お菓子も、水曜はデザートの日として、夕食後に生菓子を食べるようにしており、子供の中では週の中の大きな楽しみになっているようです。

結局、全否定ではなく、バランスを取りながら意図する方向性を生み出していく事が、日常をコーディネイトして行くオモシロさだと思うんですね。

家の周りも、コンクリートで固めたり除草剤を撒いたりするのではなく、果樹・芝生・砂利やレンガなどを組み合わせながら、手間がかかっても草取りをする習慣がようやくついて来ました。

肉をあまり使わないので食器洗剤はまったく必要ありませんし、洗濯も重曹で洗っていますが特に問題はありません。

シャンプーとリンスも使っていません。お湯だけで綺麗に洗うようにしています。

食器洗剤もそうなのですが、それによって手や頭皮の油分を根こそぎ落としてしまい、その穴埋めを薬品入りのハンドクリームやリンスで補っている訳です。

そうした洗剤類を使わなければ程よい油分が残り、それがハンドクリームやリンスよりも皮膚に優しく優れている事は言うまでもありません。

洗剤類を使わないから特別に念入りにこすらなければならないと言う事も無く、雑ではいずれにしても汚れが残りますが、普通に綺麗に洗えばそれでお皿も髪・頭皮も綺麗になるものなのです。

結局、いわゆる「普通」と言う状態は、その多くが扇動するテレビCMによって作り上げられているものなんですね。それによって必要のない物にお金を払い、地球を汚染したり皮膚などの健康を害して、さらに必要の無いお金を払う。

そこから離れる事で、調和的に自立した生き方をコーディネイトして行けば、少しのお金とたくさんの時間で、仕事に拘束される事も無く自由に生きて行くと言う「常識」も存在しているのです。

ただ、こうした生き方は、トータルなコーディネイトによって成り立つものであり、自分に都合の良い所だけを見て逃避的にそこに逃げ込んでも上手くはいかないかも知れません。

つまり、スピリチュアル的な目覚めを進めるという事が柱になるのですが、思考的にそれを進めたら、次は一歩進んで、あらゆる日常表現の中にそれを一体的に浸透させて行く必要があると言う事なのです。

思考の領域において、ある程度の達成感を感じている人たちは、自分の人生コーディネイトの中に、自分のペースでそうした要素を徐々に、しかし確実に取り込んで行くと言う意識を持つと良いのかも知れませんね。

知識は、持っているだけでは何の役にも立ちませんから。



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