アセンションの時代

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「無執着」と「無気力・無関心」

今日は、ののさんに頂いたテーマで記事を書いてみようと思います。

「無執着」と「無関心・無気力」の違いについてです。

まず、「無執着」について見て行こうと思います。執着すると言うのが「囚われた状態」だとすると、無執着と言うのは「囚われていない状態」だと言う事が出来ます。

これを、もう少し実感しやすい表現に変えてみると、執着とは「その対象に依存している状態」で、無執着とは「その対象に依存していない状態」だと言う事が出来るのかも知れません。

コメントに頂いたように、「執着すると成仏できない」と言うのは、肉体から抜け出して魂の状態に戻っても、物質世界への依存が強すぎるために、そこから離れてエネルギー世界の現実を受け入れる事が出来ないでいる状態です。

自分は肉体的存在であり、自分の存在を物質世界無しでは考えられないと言う事です。これが、幽霊(彷徨える魂)の置かれている状態です。

お金に執着する人は、たくさんのお金が無ければ生きては行けないと信じている人であり、恋人に執着する人は、その人無しでは生きて行けないと信じている人です。

その対象となる人や物・環境との、自立的な関係が築けていないんですね。

そのために、「執着」と表裏一体として存在している感情が「不安・恐れ」になります。場合によっては、それ無しでは生きていけないと言う程に、自らの存在をそのものに依存しているために、それを失う「不安と恐れ」はその執着の度合いに応じて強いのです。

つまり、その反対の「無執着」は、それに依存している訳ではないために、それを失う「不安・恐れ」に囚われる事はありません。

例えば、恋人に対して考えて見る時、「執着」している人は情熱的な愛が溢れており、「無執着」な人は冷めていて愛に乏しいかの様に感じる人がいるのであれば、それはまったくの誤解です。

傾向として、執着している人の愛は自己愛であり、無執着な人の愛は自他愛であるとも言えます。依存した愛と、自立した愛の違いなんですね。(全てがそうとは言い切れませんが)

つまり、執着している人は、そこに依存しているために何としても失う訳にはいかないと言う必死さがあるのです。それが、人によっては情熱的に見える事もあるかも知れません。しかし、情熱的と必死さと言うのは、似て非なるものですよね。

無執着な人であれば、その人と言う表れにこだわるのではなく、より本質的にお互いの幸せにこだわる事になるのです。必ずしも、「一緒にいる事=幸せ」では無いと言う事ですね。

さてここで、テーマに挙げられたもう1つの素材として「無気力・無関心」について見て行こうと思います。

この状態が、「執着」と「無執着」のどちらに含まれるかと言えば、「無執着」に含まれることになりますよね。「無気力・無関心」な人は、あまり物事には執着しません。

ただ、「無執着」=「無気力・無関心」と言う訳ではないんですね。「無執着」>「無気力・無関心」と考えられるのです。

つまり、無執着な状態の1つとして無気力・無関心があると言った感じです。

無執着とは、幸せに生きていくための「具体的な手段」に依存しない・固執しないと言う事が言えます。(調和や幸せと言った目的にはこだわります)

この時、その状態を2つに分類して捉える事が出来ると思うのです。1つは「自立した状態」、もう1つは「自立していない状態」です。

自立している人は、物事に囚われる事無く(執着する事なく)、柔軟に個性を表現し幸せを追求していく事が出来る状態にあります。

しかし、自立してなく執着も無いと言う状態では、事なかれ主義で、抵抗の少ないところへとクラゲのようにプカプカと流されて行くだけです。

実は、共感力が強いために、傷つきたくない傷つけたくないと言う人が、上手く進むべき方向性を見つけられないでいると、こうした状態に向かって行く傾向があるのかも知れません。根が優しい人たちなんですね。

ただ、こうした状態は推進力を失っている状態であるために、自分の人生を自分で切り開きそれを楽しんだり、スピリチュアルな目覚めを進めたりと言う人生のポジティブな面を経験する事が出来ません。

例えば1つの例ですが、趣味を見つけて、そこからエンジンを点火する事が出来るといいのかなぁと思います。

ただ、こうして見て来た分類と言うのは、把握しやすくするために設けたものであって、ほとんど全ての人は、執着する部分・無執着な部分・関心を持つ部分・無関心な部分と言うように、全てが織り交ざったバランスの中に存在しているものです。

例えばですが、コメントを頂いたののさんの場合は、執着を手離し無執着の部分が広がってきているのであれば、次は、色々な人や出来事と自立した関係の中で調和を築いていける割合を増やせるように意識していけると良いのかも知れません。それが出来ているのであれば、より大きなあるいは密度の濃い調和を生み出す事を心がけて行くと良いのかも知れませんね。それは、全ての人に言えることではありますが。

無気力・無関心な状態ですと、調和を生み出し広げるのではなく、分離から目を逸らせると言う消極的な姿勢になります。

例えば、笑顔であいさつをするとか、ちょっと人を手伝ってあげるとかでも調和を生み出している事になりますし(人との調和)、趣味を楽しむ事も、自分の中に調和を広げている事なんですね(心の調和)。

掃除(環境との調和)もそうですし、洗剤の使用を控えたり(自然との調和)、肉食を控えたり(動物との調和)などなど、難しい事ではないんですね。

そうした中から、自分にあったものを起点にして、自分のペースで自らの経験世界に調和を広げていくことを楽しめるといいかも知れません。すると、自分の中に、より大きな調和を生み出す活力が育って行く事になります。

基本的に、「無気力・無関心」な人の思考パターンと言うのは、「それは嫌だ」です。好きなものではなく嫌いなものに意識を向けて行く思考パターンを持っているのです。

その一方で、無執着で自立して生き生きとしている人は、「好きなもの・楽しいこと・やりたい事」に意識を向けて行く思考パターンを持っています。「それがしたい」「あれがしたい」と言うのを、その場その場でパッと見つけることが出来るのです。

無気力だと、何がしたいかわからないけれど、「あれはしたくない」と言う事です。私は若い頃には、「無気力・無関心」の塊の様な人間でした。(笑)

他の人たちが興味を持って楽しんでいる事を、同じ様に楽しむ事が出来なくて、そうした事はやりたくないけれど、代わりに何がしたいと言うものが見つけられなかったんですね。

でも、時には大きな変化の機会も交えながら、基本的にはコツコツと調和を積み重ねて来た結果、多少はそれが日常の中に広がって来ているのかなぁと思っています。

えーと、まあ、こんな感じです。そうした変化を楽しみながら進んで行けるといいのかなぁと思っています。



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