アセンションの時代

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議論することの難しさ

私たちは、相手を否定して、自分の考えの正しさを主張することで議論を重ねます。そして、正しい考えにお互いの意見を統一しようとするのです。

ここで言う「正しい考え」と言うのは、「自分の理解」と言う意味です。

つまり、自分の理解できる範囲内での「正しい」を基準にして、自分には理解できない、あるいは自分とは異なる部分を見つけあって攻撃しあうのです。

こうした議論をする場合、表層的なちょっとした勘違いの訂正や、お互いの考え方が余程近い場合などを除いて、一般的に双方が納得した合意を得ることはかなり難しいです。

例えば、1つの意見の不一致と言うのは、表層的には単にそこだけの部分的な問題に見えるのですが、本当の違いと言うのは、そうした表層的な表れを生み出しているより深い思考・信念の部分に隠れているのです。

臭いにおいを吹き飛ばしても、その元になっているものが残っていれば、何の解決にもならないのと同じことです。そこにはただ、表層的な匂いが吹き飛ばされる時に、妥協や押し付けが生まれるだけで、あまり前向きな意味が生まれにくいのです。

では、そうした一切をあきらめて、誰とも口を利かなければ良いのかと言えば、それはそれで自分自身の理解を深める機会を得られないんですね。

つまり、よほど意見を統一しなければならない理由があるのでなければ、お互いに意見を出し合って、相手の意見は相手の意見として認め合うことが大切なのかも知れません。

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ちょっと、区切りをつけてそこからもう少し踏み込んでいきます。

この時、「相手の意見を認める」と言うのは、「自分がその意見を取り入れる」と言う意味ではありません。自分の意見とは異なるけれど、その人の意見はその人の意見として尊重すると言う事です。

従って、自分の考えを相手に受け入れさせようと力む必要はないんですね。それを受け入れるかどうかは相手の判断であって、こちらが無理に押し付けたりするものではないのです。

ただ、意見が食い違うと言うことは、そこにお互いの学びの種が存在していると言う事であり、それぞれの意見を出し合うことで、自分とは異なる視点の存在を知る機会が生まれます。その事に価値があるんですね。

ただ、そうした場合、自分の意見を出せば出すほどに、それとは異なる相手の意見を否定しているかの様に受け止められてしまいやすいのです。

そのために、議論をする時の前提となる合意事項として、「答えは1つではなく、意見が違うことは悪いことではない。お互いに、自分で考え・探求していく事に意味があり、そのための素材を生み出すための議論である。」と言う考えを共有することが大切だと思います。

そうした前提をお互いが受け入れていれば、自分と異なる意見を出されても、それが自分を否定していると感じることはないんですね。「ああ、そう言う見方もあるのか。また、じっくりと考えてみよ。」と言った感じでしょうか。

本来、こうした基本的な考えは、子供への教育の中で教えられて行くべきものなのですが、私たちの社会では、「異なる意見は議論して戦わせ、すぐれた方の意見に統一して行く事が大切」だと教えているのです。

そのために、私たちの多くは自分と異なる意見を出されると、「自分が否定された」と感じる傾向を持っているのです。実際に、私たちの議論はそうである事が多いので、それも仕方の無い事なのですが。

これからの未来を進んでいく上で、「それぞれの個性」「多様性」を受け入れていくと言うことは、最後の障壁になる可能性があるものです。

「みんな調和的でなければならない」「こういうのが調和だ」と言うように具体的なルールや決まりを作って、それぞれのあり方を柔軟に認め合っていくと言う姿勢の欠如が、社会の前面に強く表れてくる大きな可能性があるんですね。

そうした意味からも、お互いのあり方・自主性を認め合っていけるように意識していけるといいのかなぁと思っています。表層的に相手を議論でねじ伏せても、深層部分の理解が変わっていなければストレスが溜まるだけで目覚めにつながり難いんですね。議論に勝つほうが正しいと保障できるものでもないですし。

お互いに自分の考えを出し合って、自分の出した考えが相手と異なっている事は仕方ないですが、そこに相手を否定する意図を込めない方が、お互いに相違点への考えを深める事に集中できると思います。

私たちは「異なる=否定」と言うイメージを持っているので、その区別が簡単ではないかも知れませんが、将来的にはそれらは明確に異なるものとして認識できるようになって行くと思います。



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