アセンションの時代

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私の経験

今日は私が以前の職場で働いていた頃の経験から、「怒り」について書いてみたいと思います。

私はその職場を辞める前には、その組織の上に立つ人とかなり激しく衝突を繰り返していました。

その人は、ワンマンで失敗を繰り返しながらも、人に責任を押し付けて・・・、まあ、嫌われ者であったのですが、自分を偉いと思っていて胸を張って怒るので、イエスマンだけが周りに残り、自分の意見を持っている人たちはそこから離れていったんですね。

補助金で成り立っている組織だったので、失敗しても全然平気だったのです。

私はその場ではニコニコと自分の考えを言うのですが、その人は自分の考えと異なる意見を出されると、とても怒るのです。

しかし、怒られてもそれで何かが変わる訳ではないので、これはこう言う事なんですよと説明すると、さらにヒートアップするのです。

そして、「出て行け!」と言われたら、「ラッキー♪」って感じで退場です。(笑)

その後は、みんながうつむいてその人の独壇場で事業が決められて、その「おいおい(汗)」と言うような事業を私たちがやらされて、批判を浴びて・・・、と言う感じでした。

それで怒っていたんですね。

でも、思ったんですね。スピリチュアル的に目覚めているマスターと呼ばれるような人たちでも、この場にいたら怒るだろうか?と。

いや、怒らないですね。

では、自分とその人たちとは何が違うのだろう。その人たちなら、この状況をどの様に感じ考えるのだろうか?

当然、「怒り」と言うのはエゴに自分が乗っ取られている状態を表しており、ハートが主導している経験ではありません。

エゴと言うのは、物事の問題を自分の外側に見つけ出して、相手をコントロールする事で解決しようとするんですね。その時に、相手が思うように動かないと、それが「怒り」となって表れるのです。

しかし、ハートはその様に、「経験の主体を相手において」「相手のあり方によって自分の経験を生み出す」と言うことをしません。

ハートは常に「自分を主体」においており、相手のあり方に振り回されること無く、常に自分に主体を置いて自分のあり方によって経験を創造して行くのです。

つまり、それをその時の私に当てはめてみれば、相手は相手なりの一生懸命を生きている訳で、それはそれ。私の問題は、私がどうあるかと言う事なんですね。

それで私は、ここは自分の居る場所ではないと思ったので、仕事を辞めた訳なんですね。ただそれも、それだけの単発の理由ではなく、就職した頃から定年まで続けるつもりはなかったし、その他の諸々の事からもちょうどその頃にはボチボチ時期かなぁと思ってはいたのです。

ただ、最後の一歩を踏み出すにはなかなか勇気がいるもので、その一歩を踏み出す力をそうして与えてもらったという事なのです。

私たちの人生においては、自分の人生に大きな影響を与える人たちというのが存在しているものなんですね。

それは良い関係からのものであれ、悪い(険悪な)関係からのものであれ。

そうした人たちとの関係を、魂の視点からソウルメイトと言うんですね。肉体的なキャラクターをかぶった役回りの中では、嫌な関係を演じることになっても、そうして自分の人生を大きく方向転換する役割を担ってくれているのです。

ちょっと、話の焦点がぼやけてしまっていますが、「怒り」と言うのはエゴによって生み出されているものであり、それは、他人をコントロールしようとして上手くいかない時に表れる感情なのです。

ハートに主体を置いている人は、基本的にあまり怒るものではないんですね。何かを守るために「怒り」を発する事はあるでしょうが、私たちが怒るようなことの大半は、実はどうでも良いような事ばかりなのです。

大切なのは、「怒り」が表れた時に、自分が「エゴ」に囚われているという事を自覚することです。そして、相手を変えさせるのではなく、自分自身のあり方を変えることで問題を乗り越えた時に、それがスピリチュアルな目覚めの機会であったということを知ることが出来るんですね。

これからの調和的な世界に進む人たちは、他の人のあり方に対して、おおらかにそれを受け入れられるようになって行きます。

そして、そこでの経験において不快なものを感じるのであれば、自分のあり方でそれを解消して行く事になり、その必要が感じられなければ、お互いに程よい距離にまで離れるようになって行くのです。

相手を無理やりに自分に合わせて変えさせるのではなく、お互いが自分らしくありながら調和的な関係を保てるところまで距離をとるのです。

そうしていれば、お互いの目覚めが進んだ時には、距離を縮めてより友好な関係になることも簡単に出来ます。

自分が正しくて、相手が間違っていると言うのは、お互いが思っていることであり、それによって怒りが生み出され、争いへと発展していくんですね。それが、3次元世界における経験の雛形です。

その表現を少し変えてみると、相手が間違っていると感じるのは、相手の考え方を理解することが出来ていないということでもあるんですね。相手の考え方にとっては、それが正しい訳ですから。

つまり、私の職場での経験も、同じことなのです。

そして、相手の考え方を理解出来たら、それはもう正しいとか間違っていると言う問題ではありません。

自分にとってそれが馴染むか馴染まないかと言う事なんですね。馴染むのであれば自分の中に取り込んで成長すれば良いし、馴染まないのであれば程よく距離を取ると言う事ですね。

私も程よく距離を取ったので、今はその人に会うこともありませんが。(笑)



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