アセンションの時代

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エネルギーを視る

頂いたコメントから、今日は「気」やそれが「霧の様に見える」と言う辺の事について少し書いて見ようと思います。

以前は「気」と言う言葉を使っていた事もあったのですが、最近では基本的に「エネルギー」と言っているものがそれと同じです。

今書いている電子書籍の中で少しだけ触れている事なのですが、基本的に全てはエネルギーなんですね。

物質もエネルギーです。それは、科学的にも証明されている事であり、ハイテク等はそうした理論に基づいて生み出されている機器であるとも言えます。

しかし、私達は世界を「物質」と言う視点から捉え、「エネルギー」として捉える事に消極的でした。

そのため、そうしてエネルギー世界を捉える思考体系がバラバラで統一されていないんですね。

例えば、エネルギー的な意味での「気」と言う表現は、気功から来ていると思うのですが、気と言うのは、「肉体とエネルギーの関係」に重点が置かれています。

そのため、エネルギーを肉体と関連付けて、経絡や丹田などとして捉えているのです。

一方で、ヨーロッパの神智学などでは、エーテル体・アストラル体などと言う様に、肉体からある程度切り換わったエネルギー体として捉える視点を持っています。

それらは、どちらも間違いではないのですが、異なっているのはそれぞれにエネルギーを捉える角度(周波数)が違っていると言う事です。

つまり、「気」と言うのは、エネルギーでも比較的、肉体に近い周波数を持ったエネルギーである事が多く、スピリチュアル的に言うエネルギーはもう少し解釈の幅が広いと言えるのかも知れません。

あと、瞑想等でエネルギー感覚が高まると、霧のように身体の周りから薄っすらと白っぽい霞が湧き上がる様に見えると書いた事があります。

これについても電子書籍で少しだけ触れていますが、類似の経験でたぶん過去にブログでも書いたかも知れませんが、両手のひらの間から、顔に向かって霧が吹きつけてきた事があったんですね。

それらの見え方はまったく異なるのですが、白い霧として本質的には同類のものだと思うのです。吹き付けて来た時にはひんやりと冷気を感じたので、湯気ではなく霧だと思うんですね。

多分、知っている人も多いと思うのですが、世界各地で異世界に迷い込んだと言う人たちの話で共通しているのは、「深い霧に包まれて、そこから抜け出したら異世界だった」と言う話しは多いんですね。

また、車や人々が突然霧に包まれて、霧が晴れたら消えていたと言う目撃情報も世界的にちょいちょいとあるのです。

多分、そうしたものと似たものではないかと思うんですね。私は異世界に抜け出してはいませんが。(笑)

それ以上に、具体的にエネルギー的な世界観からどの様な解釈が加えられるのかと言う話になると、それはサッパリと解らないと言うのが正直なところで、何かわからないけれど、見えるものは見えると言った感じです。

ただ、その時に視覚的な焦点が、宙空に合わせられてぼ~っとしている様な感じで、物質世界を見る時の焦点とはずれているんですね。

そうした霧や、少し前にも書いた「光の粒子」だとか、物質的な世界観の中ではありえないものを見るときと言うのは、そうして視覚的焦点が少しずれているんです。

例えば、いつも出来る訳ではなく時々見えてくる事があるのですが、目を瞑っていて何らかの映像が見えて来る時、それを見る焦点って、おそらく松果体から視覚的焦点によって見ていると思うんですね。

始めの頃は、目を瞑って映像を捉えようとすると、肉体的な眼球が動いてしまい、どうしてもそちらの焦点で捉えようとしてしまうのですが、なれてくると眼球ではなく松果体の方の視覚的焦点に合わせられるようになってくるのです。

多分、霧や光の粒子も、そちらの視覚から見ているものではないかと思います。

だから、肉眼はぼ~っとして焦点を合わせずに機能停止していた方が、そうしたものは見えやすいんですね。

なんか、エネルギー系の話になると、今の電子書籍を書いているような気分になって来てしまいます。(笑)

これをあまりやると、校正をしていて、電子書籍で書いたのかブログで書いたのか頭が混乱してきて困る事が増えてきますので、しばらくの間だけは、こうしたエネルギー経験に踏み込んだ話しは控える事にしますね。

リアルタイムの経験は、書くかも知れませんが、それも最近はあまり書いていないですね。変化はかなり加速して来ているのですが、本として流れを捉えた上で書いて行くのならともかく、部分的にブログでその場の事だけを書いても、独りよがり的になって上手く伝えにくいんですよね。

では、今日はこんな辺にしておきます。



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