アセンションの時代

2019年4月以降の主な更新はhttps://sunamibaku.blogspot.com/へ移転してます。

人ってどうして生きているんでしょうかね?

いやぁ、自宅のパソコンの具合が悪くなっている上に、仕事も忙しくてなかなか更新出来ませんでした。
 
さて、「人ってどうして存在しているんだろう?」です。かなりクセのある考え方かもしれませんが、結構、自分としては生きやすい考え方で気に入っています。少しでも参考にして頂ければ幸いです。おかしく理解されて変な宗教に走らないように気をつけて下さいね。ちなみに私の考え方は「古神道」系じゃないかと思うのですが、あれやこれやがゴチャ混ぜの「自分教」です。(笑
 
十代後半~二十代前半にかけて、誰もが一度は思い悩む疑問だと思います。しかし、現代の物質偏重社会においてはこの様な精神的テーマは流行りません。その様な疑問は世間の中において口にすることは、からかい半分の失笑にあう可能性すら多分に含んでいます。
 
しかし、これ以上に重要なテーマが、私たちの人生に存在するのでしょうか?
 
世間での一般的な考えは、「生命というのは、原始の海に雷が落ちて反応を起こし、【偶然】に誕生した。」という考え方が最も多数派の考えになるのではないでしょうか。これは、一昔前の科学万能時代の一時的かつ一部の考えが世間に広まり、いまだにその考え方が残っているものだと思います。科学界ではその後、生命のより精密な神秘を知るに至り、現在では様々な可能性を考えながらも、多数派としては解らないというのが実際のところのようです。
しかし、深い興味を持たない世間一般は、「解らないと言われてもスッキリしないから、原始の海に雷が落ちて説でまあいいよ。別に。」といったところでしょうか。
 
しかし、物質的な誕生の仕組みが何れであっても、それが【偶然】に誕生したと考えるのが知的な考えとされている点には変わりはないと思います。
 
本当に偶然で良いのでしょうか?それはつまり、「人は目的を持たずに存在している」という事に他なりません。
用意された目的なんて無いから、自分で決めれば良いのでしょうか?では、なぜ殺人等の犯罪が否定されるのでしょうか?殺人犯はそれを目的としたのではないですか?
 
まず、人は偶然に誕生し、進化論による課程をへて進化したという考え方を真面目に受け入れるにはあまりにも無理があるという事を知る必要があります。もちろん、流行ったテーマではないので、適当にそれを受け入れたことにしておく事は出来ますが。
 
(1)私たちは祖先を果てしなくさかのぼっていくと、この世で最初の生命に辿り着くはずです(進化論によると)。その最初の生命の必須の条件としては、膜で覆われた細胞を持っている事、その中でエネルギーを循環する機能を持つこと、そしてDNA(あるいはRNA)等の遺伝能力を持っている事が必要となります。しかし、DNAという超精密な構造が偶然に誕生すること自体が100%不可能と言っても過言ではありません。さらに、アミノ酸等の成分が偶然にそこに存在し、さらに偶然それらがうまく膜で覆われ、さらにさらに偶然それが生命活動を始める。・・・・ありえないでしょ。だからこそ、それらの仕組みを知った現在の科学は、生命の誕生については謎としているのです(様々な挑戦的な仮説は存在しますが、かなり無理があると思います。)
 
(2)言葉は猿人?が、意志を疎通するために声を発したものが徐々に進化した・・・・。少なくとも日本語の奥の深さに少しでもふれたのなら、その様な気持ちは消し飛んでしまうでしょう。私たちのイメージするような猿人だか原人だかが、何となく創り上げてしまったなんてことはまず無いと思います。言霊の奥の深さは、人知を超越した知性による・・・・と思えるくらいの無限の奥深さを感じさせます。
 
(3)この世が全て・・・・って、どうしてそうなってしまうのでしょうか?私たちの言う、いわゆるこの世というのは言い方を変えると、「私たちの五感で感知できる領域」ということです。しかし、現在では機器の発達により、犬などには聞こえるが人には聞こえない音域が存在することも、モンシロチョウには見えるが人には見えない紫外線の世界が存在する事が解っています。しかし、それで全てなのですか?「人間は宇宙の仕組みのホンの数パーセントさえも理解していない」とは一番知っているであろうはずの科学者の言葉です。まさに、無知の知という事でしょう。そう考えれば人間の五感では知り得ない世界こそが真実の世界の大部分であると考えても、何らおかしな事では無いはずです。空間的な3次元の世界の、本当の姿を知るためには4次元の世界からでなければならないのです。この世界で私たちが見ている物質というのは4次元空間に存在するものの影(部分的な現れ)でしかないはずです。もしかしたら、私たちの肉体の4次元空間の領域を見ることが出来たのなら、そこには魂などが見えたりするのかもしれません。
 
(4)この世には現実に人間の「知性」が存在するのに、なぜ、それを超越するような「宇宙的な知性」が存在しないと言えるのか?人間は宇宙の一部です。肉体は疑うまでもなく、宇宙に存在する原子を組み合わせて出来上がった物です。「心」もまた宇宙に存在するもののカケラと考えることに無理はないと思いますし、むしろそれが当たり前だと思うのですがどうでしょうか?「心」だけはどうしても絶対的に宇宙から切り離された自分だけのものでなければならないでしょうか。まさに、我に充ち満ちた・・・・・偏狭な考えかもしれませんよ。
 
いずれにしても、私は絶対的存在(全ての存在をさかのぼっていくと最終的に辿り着く)としての宇宙的な知性(仮に神と言う)が存在するのではないかと思っています。実際に世界の宗教等の思想は、お互いの相違点をけなしあっては争いを起こしたりもしていますが、視点を変えてみれば、そこに不思議な共通点を多々見つけることが出来ます。そもそもが、神の世界とは人間の五感では感知できない世界であり、それを五感での世界しか知らない私たちに解るように説明するわけですから、同一の神の世界の事柄であっても説明者によって、その表現の仕方は大きく異なってくるのは当然だと思うのです。ならば、まず注目するべきはそれらの相違点ではなく、共通点です。そして、それらの共通した世界観を裏付けるような伝説や遺跡、書物、宝物なども世界にはかなり存在しているように思います。
 
さて、以上のことを前提に、ここからが本題です。解りやすくシンプルにまとめてみたいと思います。
 
まず、絶対神が存在しました。それは、世界に存在したのではなく、世界自体が絶対神だと考えるべきだと思います。
絶対神は全てを知っていますが、何一つとして経験することが出来ませんでした。なぜなら、自分以外には何も存在しないのだから。
大きいを経験するには、小さいがなくてはなりません。
美味しいを経験するには、不味いがなくてはなりません。
神というあらゆる経験をするためには、神でない様々な存在がなくてはなりません。
そこで、神は自分の内に、様々な存在を創造しました。
これで、色々な経験が出来るようになったのですが、それではまだ経験の真似事でしかありません。
なぜなら、切り離された存在が誕生したとはいえ、あくまでも全ては部分的にではあれども、神自身なのです。これでは、何を経験しても独り芝居と同じ事です。
そこで、神は自分から切り離した部分的自分に自我を与えました。これにより、人は己の存在を神としてではなく、まず自分、自分は自分であると認識するようになったのです。
しかしあくまで、全ての存在はまぎれもなく部分的な神自身だと思うのです。ですから、神は世界の全ての存在を通して、あらゆる経験をすることが可能となったのではないでしょうか。
そして、よく神が存在するなら戦争や天災など起こるはずがないと言われます。神の本質は調和(正義)した存在ですが、それを経験するためにはお役としての不調和(悪)を創造しなければならないのです。
人(部分的神)はそのようなお役としての悪に接し、あるいは自身が悪を演じる事により、部分的神のそれぞれが成長し神自身の様な存在へとなっていくのかもしれません。
こうして永遠に成長し続け、弥栄していくのだと感じます。
 
とまあ、こんな感じです。世界は全て神なる存在ですから、全てが調和に向かうことが正義です。不調和に向かうのは悪です。神の本質は調和ですから、それが不調和に向かうその原因は「自我」にあります。自分だけが・・・自分だけが・・・という思いは、結局のところ自分を含む全てを不幸(ストレス)へと導きます。
自分を犠牲にしてというのも問題です。自分を戒めることは部分的神(自分)への冒涜であり、理に反するためストレスを生むことになります。
自分と他とを差別しない事が大切ではないでしょうか。しかし、区別は必要です。自我を与えられているのですから、調和を目指しながら自我(自分という存在)を楽しむことが人生を豊にすると思います。
 
これらの考え方が、この現実界の他に存在する神霊界や神界、神示、言霊や古史古伝等で語られる本当の歴史などと絡み合いながらシステム的に構築され思想されるのがとても面白いです。
 
これらの事から考えられるのは、現在の世界はこの世はじまって以来で最大の転換点を迎えているようです。特にこの2011年からの7年間は最大の混乱期になるのではないかと思っています。現実的にも、この秋以降の世界的な大混乱は避けられない情勢になってきています。
 
しかし、これは陰(物質、理屈、自我等)の世界から、陰陽調和の取れた世界へ向かうための建替(創造的破壊)とそれに続く建直(神世界の仕組みづくり)を経て弥勒の世(神(調和)世界の出現)へ向かう最終章(さしあたっての)の幕が開いたところだと思います。
 
つまり、ズルイ人が報われた世から人間性の優れた人が報われる世へと向かっていくのです。その流れは、建替の大混乱の最中においても同じ事です。東北地方を見ても明らかです。助け合う事が大切であり、人間性の優れた人が上に立つ方向へと「徐々に徐々に」ではありますが変わっていくと思います。そう変わらなければ、社会そして世界は持続不能なところまで来ているのです。しかし、持続不能という結果は望まれていないため(絶対神に)、これは回避されます。・・・が、不能不能でなくするわけですから、かなりの荒いことになるようです。更なる天災・戦争含みのようです。
 
しかし、それを心配する事には何の意味もありません。ストレスを生むばかりです。
 
私たちはただ、本来あるべき姿。神の一部として全て(人、社会、自然等あらゆるもの)と調和した生き方を心がけ、そのために必要な事を考え行動するのみです。それ以外に望むべき(横着をして幸せになる)生き方は無いと思うのが正解でしょう。