アセンションの時代

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人間の正体

あなたの見ている・聞こえている世界は、絶対的に存在しているものではありません。
 
それはあなたの五感が創りだしたバーチャルな世界なのです。
 
分子を構成する原子に属する電子が、光の光子をそれぞれの波長で跳ね返します。その光子が眼球の中へ飛び込み網膜に当たります。その刺激が視神経を通じて、脳がバーチャルリアリティな世界を創造し、私達はその世界を絶対的なものであると錯覚し、その閉ざされた世界の中で人生という仮想現実を経験しているのです。
 
それは音や熱などの感覚についても、まったく同様のバーチャルな要素なのです。
 
そして、バーチャル世界は「相対性」によらなければ成り立ちません。つまり、自分とその世界を構成する要素との相対性です。言い方を変えれば、個としての自分と、個という枠を超えた大いなる自分という事ですね。
 
で、私が私自身だと感じているこの個性は、何者で何を目的としているのでしょうか?
 
物質的なものというのは、素材としては重要であっても本質的な目的ではないことは明白です。なぜなら、それ自体は自分の錯覚が創りだしたバーチャルとしての要素でしかないわけですから。
 
あえて言うなら、そのバーチャルな素材によって感じる思いこそがより本質的なものだと言えるでしょう。
 
では、その「思い・心」は何を求めているのでしょうか?
 
それは「幸せ」でしょう。では、「幸せ」とはいったい何なのでしょうか?
 
人々は、人生という「幸せ探しの旅」を続けています。各々が、「これが幸せではないだろうか?」と信じたものを経験し、「幸せ」な状態になれるかどうかを試し続けています。
 
この次元のバーチャル世界の傾向として、心としての本質から逸れ、物質的バーチャル要素に幸せがあるのではないかと思い、それを試す人々が多いようです。
 
しかし、真理としての幸せは、物質そのものにはありません。あくまでも本質は、そのバーチャルによって振動する心の状態にあるのです。
 
で、心がどのような状態になれば良いのでしょうか。
 
それは、真理を知り、それをバーチャル世界を通して体験してみる時に生み出される心の状態(波動)であると思います。
 
真理とは、私とは全てであり、全ては私である。
 
つまり、世界には「ただあるもの以外には存在し得ない」のです。個としての私は、「ただあるもの」の自身が自らの内に生み出したバーチャルな「部分的ただあるもの」なのです。存在する全ては同じなのです。花や虫も同じです。ただ、その振動具合によって区別はあります。それでも全ては、ただあるものの一部なのです。
 
従って、ただあるものの一部である私は、ただあるものの真理を経験を通して知りたがっているのです。それは、ただあるもの自身がそれを欲しているからです。
 
例えてみますと、ただあるものの振動数を100とします。その一部である私の振動数が5である時に、私はただあるものの5という振動数を経験を通して知る役割にあるのです。
 
次元を超えた世界のあちこちには、それぞれの振動数を経験している私同様のただあるものの一部が存在しています。
 
それぞれ一部としての存在は真理に沿ってただあるものを求めている訳ですから、長期的な視点からは全てが波動を徐々に上昇させてやがてはそれぞれが100の波動を目指して栄えていく事になります。
 
そうした部分の上昇は、全体としてのただあるものの上昇でもあります。従って100の波動はやがて上昇をはじめます。部分と全体が相乗的に栄えていくのです。それが弥栄です。
 
では、5の波動の私は、なぜいつまでも5の波動から上がらずにもたもたと苦悩しているのでしょうか?
 
それは、「相対」において対を成すただあるもののせいではないはずです。なぜなら、それは100あるいはそこから更に成長した世界を用意して全ての場所にただ存在しているのですから。
 
つまり、問題は100%私の内に存在するのです。
 
私の心の波動を上昇させれば、世界は必ずそれに答えてくれるのです。仮に波動を下げてもそれにあわせた世界を提供してくれくれちゃうわけです。
 
だから、私が自分に言いたいことは、嫁を見るときに嫁を見てはいけないという事です。それは100%自分の一側面なのです。世界の全てがそうなのです。それは、99%ではなく、99.9%でもなく、完璧に100%自分自身の現れなのです。
 
これは宗教的な思想ではなく、科学的というか物理的な思想だと思うのです。
 
それでもなお、苦悩を手放そうとしないのは、本当にキチンと解っていないんでしょうね。でも、こんな感じで方向性はほのかな明かりとして見つけているような気がするのですが。
 
嫁が家事・子育てを放棄して、ただゴロゴロしているのが許せないのは、まだ私にクリアしていない錯覚が残っているからだと思うのです。私が家事をしている時に、子供が嫁の所へ行って菓子食ってマンガ読んでるのが許せないのも、私にまだクリア出来ていない錯覚があるからだと思うんですね。
 
許しても我慢でなく放棄でもない、私が錯覚をクリアし波動を上昇させれば、そうした状況さえも幸せを感じる素材として機能しはじめる世界が用意されているはずなのです。
 
私が世界を深め真理を知り、受け入れ、行動して波動が上昇すれば、必ず世界はキチンと寸分の狂い無くそれを映し出してくれるはずなのです。
 
ああ、自分に言いたい。
 
「さっさと、波動上げろよ。」