「心の構造」と「直感の意味」
先日の記事、「感情がカルマを引き寄せる」http://blogs.yahoo.co.jp/tottokosa/65936473.htmlでも書いたのですが、心というのは多重構造になっているのかもしれません。
それは、心という1つの存在をその特徴ごとに区分けするという認識とは異なり、感情・精神(物理重視)・霊性(神性(物と心というなら心の根源に近い部分))というもともと異なった魂(霊体のようなもの)が重なり合って1つの人間の心を構成しているかもしれないという事です。
復古神道には一霊四魂という考え方があり、勇・親・愛・智の役割を持った4つの魂とそれらを統括する1つの霊により心が成り立っているといものです。
それらを分類する1つの分け方として、精神的・人間的なものと霊的・神的なものとに分けることが出来ます。
精神は物的世界を基準にしており、理性であり理屈理論となって表現されやすいようです。一方で霊は霊的な世界を基準としており、神性(誤解されるかも知れませんが神の物理的でない面)を基準にしております。
こころの中に異なる2つの基準が存在するわけであり、このギャップが苦悩を生み出すのです。
ではどうしたらギャップを解消することが出来るのでしょうか?
全ての本質は神性であり、物的なものはそこからもっとも離れた存在です。従って、基準とすべきは神性である事に違いないと思います。ただ、この次元世界は物的な世界であるわけですから、精神性・人間性を無視することも出来ません。
理性・理屈・理論を出し過ぎているのです。本物の理屈理論であるのなら問題はないのかもしれませんが、人間の事ですから私たち自身が本物だと思いこんでいても所詮は屁理屈でしかないのです。
では、神性を主に据えるためにはどうしたら良いのでしょうか?
それは、直感・感覚の声に真摯に耳を傾けることです。
私たちはその内に宿る霊性からの直感・感覚を常に受取ながらも、「でも」「だけど」という屁理屈を付けて物的基準を正当化することに勤しみます。
飢えている人がいる、募金をするのは良いことだ、助け合い支え合っていこう。募金箱を見てパッとこう思います。
「でも」「だけど」・・・。それはわかるけれど、私にも生活があるし今月も子供の塾の月謝が・・・、電気代も値上がりしたし・・・、付き合いも色々あるし。だから、ちょっと難しいかな。現実は厳しいよね。
何も精神を抹殺せよと言うのではありません。精神の言い分ももっともなのです。しかし、ここでは主従関係がひっくり返っているのです。精神は従として生かすべきなのですが、主は霊からの直感・感覚に委ねるべきなのです。全財産を寄付しなくても千円入れておけば良いのです。余裕がなければ百円でも良いのです。
これはあらゆる場面に見られることなのです。全ての物事・行動に内包されている問題なのです。ただ、その構造を意識せずに、無意識に主従関係を逆転させてしまいがちなのです。そして、運に見放され苦悩と分離を呼び込んでいるのです。無意識のうちに。
そう言うわけで、ちょっと「直感・感覚」の声に耳を傾けてみようと思い始めている今日この頃です。(笑)