アセンションの時代

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「自分=世界」の意味

世界は自分の鏡であると言われています。自分の捉えている世界の全ての出来事は、自分自身を映す鏡だというのです。
 
現代科学の2本柱を成すのは、時空間を追及する相対性理論と、物質を追求する量子論だと言えるでしょう。
 
相対性理論もそうなのですが、量子論も存在とは「相対的」なものであることを発見しています。
 
観察するものと観察されるものがセットになって、存在が成立するのです。従って、観察するものと観察されるものとは、存在という1枚のコインの表裏だと言えるのです。
 
そこで最初に書いた、世界とは自分を映し出す鏡であるということについて考えて見ましょう。
 
私たちは観察者に関わらず絶対的に存在している世界と言うものがあって、そこに一時的に自分が存在しているのだと思っています。しかし、実はこれには大きな誤りがあるのです。
 
先ほども記したように、観察者無くして観察される世界が存在することはないのです。
 
自らの存在無くしても、世界が映し出されるベースとなるエネルギー的可能性の海は存在していると言えるかも知れません。しかし、そのエネルギー的可能性の海を確定された世界として生み出すのは「自分」という存在なのです。
 
自分でなくても他の人によって生み出されると考えるかも知れませんが、他の人が確定して自らの内に映し出す世界はその人の世界であり、その世界は明らかにあなたの世界とは異なります。
 
あなたが全感知能力をもって捕らえられるその全てが、あなたの世界でありあなた自身を現しているものなのです。
 
あるものを食べてある人は「不味い」という世界を創り出したとします。あなたは同じものを食べて「美味しい」という世界を創り出したとします。世界と言う経験は、絶対的なものではなく相対的であるからこそそこに異なった世界が映し出されるのです。
 
あなたの感じ取っている目の前の世界の全てが存在するための絶対条件は、まず「あなたが存在すること」なのです。そして、その世界はあなたの消滅(死)とともに消え去るのです。
 
「いやいや、私が死んでも世界は存在し続ける。」と思われるかも知れません。
 
しかし、そうではないのです。あなたの知っている世界は消滅するのです。後に残るのは、それぞれに他の人たちの世界です。それは、あなたの世界とは違うものなのです。
 
あなたの世界は、あなたが量子と言う可能性の海から選び出し映し出した、あなたのオリジナルの世界なのです。あなたと他の人たちとの世界には、次元や環境、法則等により多くの前提となる共通点があるために、ある意味では似たような世界であることは確かにその通りです。
 
しかし、そのように部分的に似ているところがあったとしても、だからと言ってそれは同じ世界ではないのです。
 
あなたの世界とあなたは対になっており、だからこそあなたが変われば世界の全てが変わるのです。同じ環境の中にいても、気分1つで世界が違って感じられるのは、そういう意味であり実際にあなたが変わることによって世界が変わっているのです。それが相対の意味であり、存在のありかたなのです。
 
これは、迷信や詭弁ではなく、科学なのです。ハイテク機器等をつくりだすもとになっている物理学の柱であり、アインシュタインの時代に彼を含む多くの大天才達によって築き上げられた量子論によって発見された事実なのです。
 
しかし、そうした科学は研究室の学者の頭の中に研究中に現れるのみで、一般の人々やあるいは日常生活の中に広く広がらないまま今の時代に至っています。
 
スピリチュアルと科学は、本来は難の矛盾も無く一体的であるものです。同様に、政治・経済・医学・自然・科学等々も全て、1つの世界を異なる側面から見たものであるだけで、結局は同じ1つの世界を現しているのです。そこには本当は、何の矛盾も無く一体的にそれらの全てがあるものなのです。
 
私たちは、その1つの世界を粉々に切り分けて、別々のものとして理解しようとします。そして、そうした「世界と自分」と言う対であるべきものさえも別々に切り分けて理解しようとしているのです。
 
考えてみれば面白いものです。ある生き物を理解するために、各部位から臓器までをもバラバラにして、そのそれぞれを極めることでその生き物を理解できると思っているのです。しかも、それらの各パーツ間に矛盾があって繋がらなくても、それにはあまり興味が無いのです。
 
つまり、全体像がまるでつかめていないのです。
 
しかし、それもある意味では仕方の無いことで、私たちはそういうゲームの中に参加していると言うことなのです。
 
そして最後に、実体験としての日常の経験と、こうした理屈理論もまた別々のパーツではなく常に一体的でなければなりません。
 
それを私たちのゲームの中で実践していくのはとても難しいことですが、その難しさを乗り越えてそれを実現したとき、私たちは「とても難しいことを成し遂げている」という感覚ではなく、何でこんな「当たり前のことに苦労していた」のだろうというスッキリとした気分でいるのだろうと思います。
 
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