「知識・情報」と「常識・世界観」の違い
何でもそうなのですが、私達は「知識・情報」を重視して、それを思考の中に詰め込むことが進歩であると考える傾向を持っています。
それは、私達が押し付けられてきた「教育のあり方」がそうであったためであり、私達にはそれを「自分のあり方・自分のもの」として定着させる事の重要性を見落としています。
世界中の知識が情報がインターネットで繋がりあった今の時代では、過去のマスターと呼ばれるような人々が持っていた叡智のかなりの部分を知識として取り込むことが出来ます。
ただ、それは自分と言う存在に定着していない、外から取り込んだバラバラの知識であって、マスター達が持つ叡智とは似て非なるものなんですね。
つまり、マスター達が自分の中に目覚めた者としての完成したパズルを持っているとすると、私達は未完成のパズルのピースを一生懸命に集めることに夢中で、それを自分の中に組み立てて行こうとしない傾向にあるのです。
それは、「知識を通して競争的なあり方を否定しながら、自分の行動は染み付いたパターンに囚われて競争的なあり方を反映している。」などと言った感じです。
これは、「悪い・劣っている」と言う意味ではなくて、それが私達の「普通」であり、それを自覚することが出来なければ、なかなかそこから抜け出すのは難しいと言うことでもあります。
今回の電子書籍の中などでは、そこに1つのポイントが置かれてもいるのですが、「思考(知識・情報)」と「信念(常識・世界観)」の違いを明確に区別すると前に進みやすくなると思っています。
これらは経験創造の過程において、決定的な役割の違いを持っているのですが、私達はそれを「思考(知識・情報)」としてひとくくりに捉えてしまっている傾向にあるのです。
思考と言うのは、必ずしも自分のあり方とは一致しているものではありませんが、信念とは必ず自分のあり方と一致しているものなのです。そして、私達の経験を生み出しているのは「信念」です。
そうした信念を分離から調和へと切り替えていくためには、思考の中に知識・情報を蓄積した上で、それを一体的に自分の中に定着させていく過程が必要になるんですね。
それには、経験を通じた過程が必要となり、その過程を一言で表す言葉が「パラダイムシフト(常識転換)」なんですね。
これまでそうした常識転換後の世界観から語っているものと言うのは、主にチャネリング情報の中にしか見ることは出来なかったのですが、今ではそれ以外の記事の中にも見かけることが出来るようになって来ています。
そうした記事を見かけた時と言うのは、何とも言えない感慨深いものがあります。