アセンションの時代

2019年4月以降の主な更新はhttps://sunamibaku.blogspot.com/へ移転してます。

悪(幸せに対する非効率)との共存共栄

ここで言う「悪」というのは、「幸せに対する非効率」という意味であり、幸せとは「愛」あるいは「調和」等を指します。

このブログの他の記事でも書いていますように、この世界というのは存在するものの「ムラ」によって成り立っています。例えば光子のムラが明暗を生み出し、エネルギーのムラが強弱を生み出しているように。では、そのムラがなくなり、全てが同一・均一になったらどうなるでしょうか?もし、そのような状態になったとしたら、それは「無」の状態です。全ての空間に光子の量が均一に充分に行き渡ったのなら、「暗」は無くなります。それは同時に「明」も無くなるという事を意味します。「明」はあくまでも「暗」に対しての明るさなのです。あらゆるものにムラがなくなったのであれば、それは大きな1つの「全」となり、同時に「無」でもあるのです。

では、「悪」に対するものは何でしょうか?それは「愛」であると思います。悪とは愛のより不足した状態です。

さて、ここからが本題です。先にも述べましたように「悪」が無くなるという事は、同時に「愛」が無くなるという事でもあるのです。かといって殺人等のような極端に愛の不足した原始的な悪はすぐにでも無くなって欲しいものですが、身近に存在する「幸せに対する非効率」としての悪(良くない方法)はどうでしょうか?人間関係上のトラブルというのはほとんどがこの「幸せを経験するための方法」の相違からきているのではないでしょうか?「あいつのやり方は許せない!」「なんで、そんな馬鹿げた事をしないといけないんだ!」等々。
しかし、誰もが同じ考えになってしまったのでは「愛」を経験できなくなってしまうのです。「愛」を経験するためには先にも述べたような理由から「悪」が必要なのです。例えばみんなが「愛」という山を登っているのであっても、7合目を登っている人もいれば2合目を登っている人もいるでしょうし、南口から登っている人もいれば北口から登っている人もいるでしょう。それらの人々の愛という頂へ向うペースや方法はみんな違って当然なのです。2合目を登っている人に向って7合目からペースが遅すぎると怒ってもしょうがないのであり、2合目から7合目の人に速すぎると怒ってもまた意味の無いことなのです。アドバイスこそしても、否定するべきではないのです。そのような相違については、相手を否定するべきではなく、逆に自分が否定されても落ち込むことなく余裕をもってアドバイスと受取ればよいのではないでしょうか。

ただ問題となるのは、山を下っていこうとする人です。山(幸せ)は厳しいからといって下っていく人。さらには、登ろうと努力する人を蹴落としたり、道連れに山を下ろうとする人々はやっかいです。それはやはりキチンと否定するべき行為ではないでしょうか?極論としては殺人がそれに該当し、身近な例でも悪意から人の邪魔をするような行為はそれに当てはまるでしょう。

現実にはなかなか難しいですけれどね。でも、そう考えるようにしていれば、アタフタとしない余裕が出てくるんじゃないかなと思って、最近はそう心がけるようにしています。子育てをめぐって、なかなか嫁とうまくいかないんですよ・・・(涙。