アセンションの時代

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二極性の統合

シリウスの光と闇の戦士さんから頂いたお題で、二極性の統合というような事で記事を書いてみたいと思います。これからも、何かご希望のテーマがあった時には、誰でも気楽にコメントからふってもらえると嬉しいです。絶対的な「答え」を記事にすることは出来ないでしょうが、皆さんの考えの「参考」として利用してもらえるように、私の考えを書くことは出来ます。少なくともここでは、「変な質問をしちゃいけないし」とかというように力まない方がいいですよ。疑問があれば、素直に一緒に考えてみましょう。

さて、本題に入ります。

逆説的なことを書きますが、二極性の統合を考える時には、まずこれまで私たちは2つの要素を区別せずに1つに統合して考えて来たことを、2つの要素に分離して考える事をしなければなりません。

例えばピクニックに出かけようと予定していたのに、雨が降って行けなかったとします。

これまでの感覚であれば、行きたかったのに雨が降って行けなくなってしまったから運が悪い、嫌だなぁとなります。

この時、私たちは「雨=嫌」として捉える傾向にありました。

つまり、「現象と価値判断」を一体的に考えて来たのです。

しかし、これは本来は一体的なものではないのです。価値判断とは私たちが持っている創造の力なのです。しかし、現象はただ現象であり、それは物理的・エネルギー的な現れでしかありません。

何かの現象(ここでは雨)が現れた時に、そこに価値判断を加えるのは「私たちの持つ力」なのです。4次元の世界では、同じような状況であっても、常に自分の力で、そこにポジティブな価値判断を与えるようになっていきます。

つまり、雨でピクニックが中止になれば、その楽しみを先延ばししてとっておく事ができます。雨曇りであれば、行くか中止にするか悩むところですが、雨なら迷わずに中止することが出来ます。そして、予定外に自由な時間を手に入れることが出来、その時間で自分のしたい事が出来るのです。この場合、雨が降ってピクニックが中止になったことはポジティブに受け取られています。

しかし、3次元にいた私たちは、自分の力でポジティブにもネガティブにも意味づけられる出来事に対し、「自らの力を放棄し、現象にその力を与える」ことをしてきました。

つまり、「雨で中止になった=嫌な事」と言う訳です。物質的な現われを極端に重視してきた私たちは、物質的にどう現れようと、それに対する意味づけは「自分のさじ加減ひとつ」だという事を忘れてしまって来たのです。

「二極性の統合」というのは、このように「ポジティブもネガティブも、自分の手のひらの中にある」という気付きの事を言うのです。

例えば、A国とB国が戦争をします。

3次元で二極性に分離していると、両国とも「自分=正しい、相手=悪い」と決め付けるので戦争を回避する事が出来ません。

しかし、これが4次元で二極性が統合し始めると、お互いに「自分も相手も、それぞれポジティブな面もネガティブな面も持っている」という事を知り、それぞれのポジティブな面に意識を向ける事で、双方のポジティブなあり方へと意識を進ませる事が出来るようになります。

これが、二極性の統合の1つの捉え方です。

そして、もう1つの捉え方があります。

このように、お互いの関係において、双方にとってポジティブな関係がお互いに最善の選択である事が解ってくると、自分と他人との間にある「差別」が無くなります。

「区別」はそこに経験がある限り残り続けるのですが、「差別」というものが無くなっていくんですね。

これまで私たちは、これは私の物だから、他の人が自由にしてはいけない等々というように、差別をしてきたんですね。それは、世界のあり方自体が差別的なあり方であったために、そこで生きていくためには仕方の無い事であったのも事実ではありますが。

しかし、お互いに自他の差別を放棄して、そうした二極性も統合出来る状態に私たちの内面が変われば、世界のあり方もその波動に調和した差別の無いあり方へと変化していくのです。

具体的には、私たちが差別無く調和できる状態になれば、搾取的な金融システムが崩壊し、フリーエネルギーが実用的なレベルで社会に広まり、社会が想像を絶するレベルで豊かになります。

すると、これまでのように富を競争で奪い合う事をしなくても良くなるんですね。

このようにして、私たちは二極性を統合していくことになります。

まとめてみると、

① どんな現象が現れようと、私たちの力は、そこにポジティブな意味を与える事もネガティブな意味を与える事も出来るということに気付く。

② 自他の関係の中で、自分にとってもっともポジティブな事が、お互いにとってもっともポジティブな事で、相手にとってももっともポジティブな事であるという事に気付く。

その2つの結果として、自他の差別が無くなり、現象に振り回されること無く、お互いの力でポジティブな選択が重ねられていく社会が、これから4次元で私たちが覚えていく事です。アセンションと言うのは、そうした社会へ入るための入学試験のようなものですね。

3次元には、そんな発想すらも無くただ分離による争い(受験・経済・武力競争)を繰り返して来ました。分離のネガティブさを知り尽くす事が3次元での学びだったのです。

それを充分に学びきって、「もう分離による競争は嫌だ。調和したい。相手にも幸せになってもらいたい。自分も幸せになりたい。」と、錯覚無く自分がそれを望む存在となれば、では、4次元に進んでそれを学んでみましょうというわけです。

それが完全に学び切れたら、次は5次元ですから、現時点でそれが完璧でなくても大丈夫なんですね。完璧ならなお言う事はありませんが、取りあえずは、そうした学びへ進む準備さえキチンと出来ていれば4次元へは進んでいけると思います。

だから、心配してネガティブな波動に捉われない事が大切です。

アセンションの過程では、これまでの古い分離的なシステムを手放す事が必要になり、それはこれまでの社会システムの崩壊として現れます。また、地球自身も、これまでの人間による環境破壊を洗い流し、惑星自らを変化させる事が必要で、それが自然災害となって現れます。

すると、どうしても「不安」に捉われることになるのです。「不安」の根源は、「生存」に対する危機感です。

しかし、私たちは死んでも生きているんですね。(笑)

死とは、肉体と言う乗り物から降りることであり、私たちがこうして感じて考えている「意識が消え去る」事ではないんですね。意識はそのまま残るのです。

東北での震災後、幽霊がとても頻繁に現れているそうですが、印象的なものとしてこういうのがあるんですね。

夜、タクシーの運転手が人を乗せて行き先を聞くと、その人は「あのぉ、私は死んでいるのでしょうか?」と言って消えたそうです。

また、震災とは関係ありませんが、霊能者の霊視で、死んだ人の霊が「俺はここにいるのに、どうしてみんな気付いてくれないんだ!」ととても動揺していたという例もあります。

死んでも死後の世界を信じておらずに、物理的世界が全てだと信じきっている人達は、死んでも変わらず意識があるために、つまり、物理的な世界にまだ生きているんだと解釈して、今までどおりの日常を幽霊となって続けているという例がとても多いそうです。

シックスセンス」という映画が昔ありましたが、まさにそういう感じだと思います。怖い映画は嫌いな人はラスト(ブルース ウィリスが自分の状態に気付く所)前後だけでも見ると、イメージとして掴みやすいかも知れませんね。

そのように、死後に幻想に捉われなければ、私たちには死後の世界こそが本来のもといた世界なのです。つまり、これまで経験してきた3次元世界と言うのは、大切な経験と学びの機会であり疎かにするものではありませんが、あくまでも一時的な学びの体験であり、私たちのもともと存在している世界ではないんですね。

それをキチンと理解できていれば、「死」とは必ずしも恐れるものではないのです。死は自分が目的としていた学びが終了した時に、誰にも訪れる帰宅の時なのです。

「恐れる」ことには何も意味が無いんですね。それは、ただ自分の波動を下げる事にしかなりません。それに意味が無いという事を学ぶために、意味の無い経験をしている訳で、そういう意味があるといえば意味はあるのですが。(笑)

ちょっと、最後に話しがそれて来ましたね。二極性の統合についてはこんな所です。
 

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