アセンションの時代

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自分を「評価する」もの

私たちは、人に褒められると嬉しくなりますし、人から批判されると面白くありません。

しかし、人から与えられる評価には、実はあまり意味は無いんですね。

例えば、殺人犯から「お前はいい目つきをしてる」と褒められたり、スリの常習犯から「いい手つきをしてるなぁ」と褒められても嬉しくはないですよね。

私は子供の頃に、「大人たちの言う「いい子」は、自分たちに都合のいい子だ」という事を強く感じてから、ほとんど人の評価には価値を置いては来ませんでした。

例えば賞状をもらったとしても、「こんな紙切れ1枚もらって何が嬉しいんだろう?」と苦笑いしながら冷めているような感じなんですね。

ただ、人からの評価が、自らの自己評価と合致して手ごたえを感じた時には、素直に嬉しいものです。

しかし、自己評価とズレて、自分的には的外れなところで褒められた時には、相手が目上の人だろうと誰だろうと嬉しくないですし、虚しさを感じたりすることもあります。

逆に、犯罪者のような人であっても、キチンと自己評価と合致した視点を持って褒めてくれるのであれば、それは素直に嬉しいだろうと思います。

つまり、自分に価値のある評価を下せるのは、自分以外にはあり得ないと言う事なのです。

私たちの人生と言うのは、「自分」を経験する事なのです。

「自分」を経験して、自分と言う経験から「光」を知り体験しているのです。

外からの評価に価値は無いんですね。そこに価値があるのは、自分と同じ価値観を持って自己を評価してくれたものだけなのです。自分と異なる、自分には否定的と考える価値観から自分に高評価が与えられるというのは、ある意味で残念な事であり自分の未熟さの指摘を意味する事にさえなります。

そうした事から、「天才」と呼ばれる人たちには、人からの評価に無頓着な人達が大勢います。自分の本当の価値が理解できていないのに、ただ「天才だ、天才だ。」ともてはやされても、「どこがどの様に天才なのかわかってんの?」という感じなのかも知れませんね。

そうした「天才」に、本人が納得の行く正当な評価を与えられるのは、やはりまた「天才」である人たちだけなのでしょう。そして、その「天才」同士が、切磋琢磨するライバル同士である場合もよくある話しなのでしょう。

このように、人からの評価と言うのは、自己評価と合致しない限り意味などないんですね。

ただ、自分の目指す道を遥かに先に進んでいる人からの評価は、自分にはまだ理解できないものを評価してくれていることもあり、そういう時は、喜ぶに値する場合もあることでしょう。

ただ、自分に自信のない人は、どうしても外からの評価を過剰に意識してしまう傾向があるんですね。

言い方をかえれば、自分の中にスピリチュアルな軸足が確立できていない人は、軸が内に振れたり外に振れたりと自分自身を振り回してしまうんですね。

それでも内に意識を集中し、スピリチュアルな軸足の確立に重きを置けば、徐々に安定していく事になるのですが、それを自ら簡単に卒業してしまって、外の世界を追いかける形で意識を向けてしまうと、必ず「自分が苦しむ」ことになってしまうんですね。

私たちは、自分に正当な評価を与えられるところまで、スピリチュアルな要素を高めていかなければなりませんし、そこに近づいていけば、人からの批評など一切気にならなくなりますし、自分で勝手に振り回されて疲れてしまうようなことも無くなります。

リラックスして肩の力を抜き、暖かな太陽の日差しの青空の下で、そよ風に吹かれながら気持ちよく生きていきたいですね。

これからカオスが到来しようとしていますが、自己を振り回さずにキチンとスピリチュアルに留まっていられる人は、どんなに社会が混乱しても、太陽は常に暖かく輝き、空は青く、木々の間からは木漏れ日がきらめき、心地の良いそよ風がほほをなぜていくという事をキチンと理解していられるんですね。

私たちは誰もがそうあれるように、今、自分と向かい合い、協力して新しい社会を構築していこうとする世界の中で、試行錯誤しながら前に進もうとしているんですね。

人からの指摘は聞くに値しますが、人からの批評に振り回されて自分の軸足がフラフラしないように、しっかりとスピリチュアルな軸足を鍛えていきたいですね。