アセンションの時代

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「自分」と「世界」

「考え方」として、自分=世界と考えるとが出来ます。

これまで、私はそう考える傾向を強めてきていました。例えば、自分がテレビであり、世界がそこに映し出される番組といったような感じです。

正確にうまく表現できませんが、これは量子論的な考え方においても、「観測者」が存在し観測することによって「観測される状態が確定する」のであって、観測者と観測される世界は切っても切り離せない関係にあるのです。

あなたが観測している世界は、あなたという存在とは切っても切り離せない表裏一体的な関係にあるのです。

例えば、私が観測している日常世界は、私という存在と一体的に存在しており、つまり、あなたは私の観測している世界とは、あなたの観測する世界に現れるこうしたブログという繋がりによってのみ関係しているのです。

もちろん、おおもとのエネルギー的な部分で、同じ地球世界と言うベースのエネルギーを経験しているので関連性は多々あるのですが、だからと言って「同じではない」ということです。

私の世界とあなたの世界が別の世界だということは、私とあなたが別であるということとまったく同じことなのです。

ただ、それも言葉のあやと言うか捉え方次第で、私はあなたを映す鏡であって、あなたは私を映す鏡であるというようにあなたや私がそれぞれの世界と表裏一体であるように、そこに世界の一部として映し出されているあなたと私はともに表裏一体の関係にあるとも言えるのです。

このような1つのステップとして「考え方・世界観」としての捉え方があります。

ただ、それで全てと言うのではなくて、それとは別に同じ方向性をもって、「感じ方」というものがあります。

自分と世界を表裏一体的に「感じる」のです。

例えば、自分の体内に意識を集中します。すると、そこに肉体内の感覚があると思うのです。それは、具体的な臓器の感覚と言うよりは、何か心と言うか意識と言うか空間のような感覚ではないでしょうか。

それを体内の感覚として感じると思うのです。私は以前はそうでした。

今はと言うと、体内から目の前の世界や自分の後ろ側の広がりも含めて、自分の感じる世界全体に自己の内面の感覚を感じます。

例えば、お腹の感覚を目の前の空間と一体的に感じたり、指先や足の感覚も周囲全体の空間と一体的な感覚として感じます。空間というのは3次元的な空間ではなくて、内面世界的な空間です。

最近、視覚を軸として自分の経験する事が、「象徴」として感じられることが増えてきています。

例えば、昨日、車で走っていたら、目の前を雲の影が同じスピードで逃げていくんですね。

影・闇・3次元的なものは、自分から急速に遠ざかっているのに、自分のほうからそれを追いかけているので、その距離が変わらないんですね。

例えば、「仕事」について最近そんな事を感じていたのです。すでにその殆どは手放している訳なのですが、まだ手放せるものがあると感じているんですね。

この様に、目の前の出来事が「象徴」として感じられることが出てきています。

朝の目覚めの頃の感覚は、自分がアメーバの様なエネルギー体として感じられるんですね。

まあ、一般的に言えば「おいおい、ヤバイんじゃない(汗」という感じですね。頭大丈夫か?という意味で。(笑)

自分でも、それを人に押し付けたり理解してもらおうとするつもりはなく、こうなるにはこれまで繋がってきている一連の流れがある訳で、この流れがどこに繋がっていくのかなぁと、ひとり内心で楽しみにしている感じです。