「知識と信念」の違い
う~ん、昨日の記事は自分への戒めというか、何か今の自分が必要としてやってきたテーマだったんだなぁと感じています。
孤独です。(笑)
最近は、自分の魂が必要として決められたテーマが、短期集中的に押し寄せてくるような気がしてなりません。
人の心を傷つけてしまったかも知れないとか、誤解されてしまったかも知れないという思いが1つドンと出たら、似たような事がパタパタッと引き寄せられたたみかけて来たような感じです。
少し前にも、違うテーマで同じような事があり、これらはこれまでに無かった感覚であり、世界の波動が高まってきている事の表れなのかなぁと言う気がしています。
こうして、集中的に自分の弱点をつくような出来事が続くと、これまで溜め込んできた知識を使って、その知識を自分の中に完全に一体化させることを要求されます。
つまり、自分と知識が切り離された状態ではなく、自分とその知識を完全に一体化させて、その知識を自分自身の一部とする必要が出てくるのです。
知識を、自分とは違うけれど「持っている・知っている」という状態から、「自分自身の一部」として自分の中にその知識を吸収して一体化するのです。
多次元的に正しく言えば、既に自分の中にあるものを、思い出して認め受け入れるという事だとも思いますが。
すると、私の場合は、まず知識は持っているのだけれど、それは自分から切り離されたものを持っている(認めきっていない)状態で、自分の一部として一体化出来ていないものがあるという事なのです。
それは、結局のところ、まだこの多次元世界という新しい世界観を、受け入れきれていないという事に気づくのです。
多次元世界というあり方を、自分の「信念」として確立出来ていれば、こうした不安や孤独は起こっては来ないはずなのです。
しかし、それが起こってくると言うことは、まだこれまで受け入れて生きてきた、3次元的な世界観が自分の中に染み付いていると言うことだと思うのです。
では、もう少し具体的にどの部分を信じられていないのかと考えて見れば、全ては一体的に自分の内面に映し出されている物理的経験だという部分です。
不安や孤独を感じるということは、それ自体が「分離的」世界観を受け入れていると言うことを証明しているのです。
自分が調和を求めて動いたのであれば、それで良いのです。もし、現象的表現として、それが誤解という形で表れたのであれば、そこでさらに調和を求めて見れば良いのです。
そうして誤解を引き寄せる可能性を感じたのなら、そうならないように、調和的な補足を付け足して見れば良いのです。それだけの事であり、「今」の中で対応していけばそれですむ事なのです。
逆に言えば、「今」以外の時に対応することは出来ないのです。
だから、過去を悔いたり、未来を心配したりする事には意味は無いし、「今」映し出されている世界は、自分自身が物理的世界として表現されたものなのですから、分離やそれに基づく不安や恐怖で捉える必要など無いのです。
それは、解っているのです。
しかし、「自分は違うけれど、知ってはいる」という状態なんですね。
これを「それが自分自身の一部・信念・世界観」という所に持ってこなければならないのです。
自分の中に染み付いたものを洗い流して、新しいものを表出させるというのは、想像以上に手間隙かかる行程であるようですね。