目的
今の時代の中で、人は様々な目的を抱えて生きています。それは、議論1つとっても、全ての人が同じ目的を持っている訳ではありません。
真理を追及したい人
仲良くしたい人
議論に勝ちたい人
馬鹿にして優越感を感じたい人
同じ、あるいは調和の取れる目的を持った人同士の議論と言うのは、お互いに充実感を感じる事になります。
しかし、調和の取れない目的を持った人との議論には、不協和音・抵抗が生まれる事になります。
そうした時に、「何とか解ってもらおう」と力説して、不協和音の泥沼にはまり込み、そのストレスに囚われてしまうのが私達の一般的なありかたです。
例えば、優越感を感じたいと言う「目的」を持っている間は、その人はその目的に沿って世界を経験しているために、外からどう接してみても、そうした視点からしか届かないんですね。
例えば、そうした経験をして来た人が、自らそれに疑問を感じ始め、迷いが生じ、自らそうしたあり方から抜け出そうと模索し始めた時、その時は、外からの声と言うのがとても有効に届くタイミングなのです。
しかし、当人がまだそうした状態に無い段階で、「何とか解ってもらおう」と無理に調和を押し付ける事には意味は無いんですね。
実際には、意味が無いのではなく、それを無意味だと知るための学びとしての意味はある訳ですが。
そうした、異なる目的を持つ人との接触と言うのは、今の社会では、どこにでも普通に転がっているものだと思います。
そうした時に、スピリチュアルな人の1つの傾向として、「何とか解ってもらおう」と言う好意として表れる事があります。
しかし、それは視点を変えれば、相手の学びのペースを無視した押し付けと言う見方も出来るのです。
相手がネガティブなエネルギーから接してくる時には、一歩下がってそっと見守り、そこに油を注がないで置いてあげると、そうしたエネルギーは、油を求めて他の場所へと流れていくのです。
そうして、あっちやこっちを流浪しながら、自らのあり方がどういうものかを学んでいるのです。
それは、バカにするとかそう言う話ではないんですね。
例えば、自分はスピリチュアルだと自負する人であっても、5次元やそれ以上の存在たちから見たら、決してそんな事は言えないでしょう。
要は、経験と言うのは視点をどこに置くかと言う問題であって、絶対的なものなど存在していないのです。
つまり、ネガティブを求めて流浪する人の経験も、5次元の存在たちの経験も、どちらが良い悪い、あるいはより価値があると言うものではないのです。
それぞれの「経験」に、同じだけの価値があるんですね。
ただ、同じだけの価値があっても、一方は学びとしての苦しい経験であり、もう一方は収穫としての調和的な経験である訳で、質はまったく異なるものです。
そのために、私達は調和的な経験を目指すのは、もっともな事ではあるのですが。
相手の経験を認めると言う事は、相手に同調してあげると言う意味ではありません。それは上手くいかないと知っていても、相手がそれに気付く事を願いながら、そっとその学びの機会を認めてあげると言うことなのです。
そうした機会は、家庭や職場に溢れており、「何とか解ってもらおう」と言う思いがお互いのストレスを増大させて行くんですね。
例えば子供など、接する必要がある相手であれば、相手の一歩先の答えで接してあげるのが理想であり、十歩も二十歩も先の答えで接したのでは摩擦が生まれる事にしかならないのです。
まあ、それが出来るのなら苦労し無い訳ですが。(笑)
でも、0か100かと言う話ではなく、少しでもそうした要素を取り込んでいくと、それに応じて少しでも人間関係のストレスが減っていくのかも知れませんね。