「エネルギー感覚」の拡大過程について
最近、エネルギーと偏頭痛についての記事を続けてきた事もあり、エネルギーについてのコメントを何度か頂いていますので、今書いている電子書籍と頭の中で混乱しない程度に、少しだけ記事を書いてみたいと思います。
まず、エネルギー感覚と言うのは、基本的に大雑把な感覚です。それは明確なものではあるのですが、物質のように細かな輪郭がハッキリとしている訳ではありません。
そのため、私の場合は、細かな事にはこだわらずに、感覚重視で手探りしながらどんどん進んで行くような感じです。その時には、先に大雑把な見通しを立てて進んでも行く事もあるのですが、後から振り返って「なるほど、こう言う方向性で進んできたのか」と気づく事も多々あります。
私が経験的に思うのは、「あまり知識を先行させ過ぎない方が良い」と言う事です。つまり、外から与えられた知識よりも、実際に自分で感じ取っている感覚に意識を集中してそれを重視した方が良いと言う事です。
それから、私は松果体とハートの2つのエネルギーについて取り上げる事があり、その中でも松果体のエネルギーの割合が圧倒的に高いです。ハートのエネルギーにはテンポの良い変化が無いので、そうも度々書くこともないんですね。
そして、その2つを含めて、チャクラや丹田と言うエネルギーの基点となる場所は他にも複数存在しています。
この時、「エネルギー感覚の探求」と言う視点から捉えると、それを主導的に切り開いて行くエネルギーと言うのは「松果体」のエネルギーなんですね。これは、他のエネルギーと比較して、明確に異質な性質を持っています。
他のエネルギーは、あるものを感じると言った感じで、それを思考によってコントロールするような事は出来ないんですね。
それから、最後に偏頭痛について。
私の偏頭痛は、エネルギー感覚の探求によって表れているものではなくて、エネルギー感覚が始まる20年近く前から原因不明でとても激しい症状を伴って度々表れていたものです。
そして、エネルギー感覚が表れ拡大し始めて2年くらいたってから、エネルギーと偏頭痛の関係に気づき始めたのです。その辺の事については今書いている電子書籍の方で詳しく触れています。
従って、エネルギー感覚の探求が偏頭痛を引き起こしていると言うよりは、偏頭痛(松果体の活性化による副作用)によって、エネルギー感覚の中に引きずり込まれて来たと言うのが実際のところなのです。
エネルギー感覚が表れた当初も、それを強めようとしていたのではなくて、あまりにも強く偏って表れたその感覚を散らして薄めようとする事が取り組みの中心であったのです。
実際のところはそんなもので、何も厳しい修行をして、松果体のエネルギーを高めてきた訳ではなくて、ブログ記事を振り返ってもらっても確認できるとおりに、結構お気楽に楽しみながら探求しているだけなんですね。
間違えないで欲しいのですが、これは謙遜などという話しではなくて、とても重要なポイントなのです。
かつての3次元世界では、社会の中でスピリチュアル的に波動を高めて行く事は極めて困難な状況でした。そのために、人里はなれた自然の中で、エネルギー感覚に意識を集中しそれを探求する事で、自らの波動を上昇させていたのが仙人などと言われる人たちですね。
ただ、今の地球は急激な波動上昇の過程にあり、社会から離れる事無く程よい距離感の中でスピリチュアル的に波動を上昇させて行く事が可能なのです。
そうしてスピリチュアル的に波動を上昇させていけば、エネルギー感覚は勝手に出てくる事になります。そして、それが出てきたら楽しみながら探求する事によって、より一層波動上昇が加速し、その結果がスピリチュアルな面に表れ、その結果がエネルギーの面に表れるという具合に、アセンションの過程が加速し始める事になるのです。
ただ、そうした時に、私の場合はとっくに中年世代に入っており、今の子供達と違って、松果体が活性化していない状態からスタートしています。
従って、そうした加速の過程では、どうしても松果体に無理な負担が掛かってくるのは仕方の無い事なのです。
その負担を散らそうとしてエネルギーを拡散する事で、ハートや他のチャクラも活性化してきたのであって、まあ、そんな事なんですね。
エネルギー感覚が云々と書くと、人一倍そうした取り組みに力を入れて、自ら副作用を引き寄せながらも頑張って進み続けていると言うように感じられるかも知れません。
しかし、実際には感覚が表れるずっと前から松果体の活性化による副作用として、訳も分からない偏頭痛に苦しめられ続け、極端に偏って勝手に表れてきたエネルギー感覚を何とか散らして薄めようとする中でエネルギーの拡大軌道が浮かび上がってきたと言った感じです。
私がこれまでの本の中で、「スピリチュアル面」の重要性や、その覚醒過程に力を入れて来たのにはそうした意味があるんですね。全てのベースは、そこにあるのだと言う事です。